ルイのコーヒータイム

ひと言だけ ‥‥ というブログ。 淡泊なコーヒータイムにしたい。

中国人・石平太郎さん

記事のタイトルを「日本人・石平太郎さん」と書いていたのだけど、

一瞬躊躇しましたが、

敢えて「中国人・石平太郎さん」に変えました。

なぜ敢えて「中国人」に変えたかというと、

つまり仮に、彼が帰化しない中国人の存在のままであるとしても、何ら支障はないという意味です。

つまり人間の真価は民族や人種は関係ないのだということ。

結局は個人、という言い方がありますけど、やはりそうなんですね。

 

前回、前々回と、石平さんのツィートをリンクしましたが、

別途、私は次のツィートが気になっていました。 

 

 

日本が敗戦したその日、ここには同じ風景が広がっていたはずだ。

風景に対する愛情がなければこういう言葉は出てきませんよ。

切ないですね。

自由な透明度の高い愛情です。

さりげないツィートに滲み出ています。

まあそこいらの日本人だったら、

丹波の山村に旅して、わあ田舎の景色いいなあ、心が洗われるゥ~とか、

必ず自分の快感に繋がっていますよね、まあそういう人に限って実は洗われていないん

だけど、自分でそう思っているだけで、かく言う私もそういう手合いなんだけど、

あるいは土地の人だとオラが畑の執着の愛情だったり。

 

自由な透明度の高い感性は、たとえその場所がどこの国の風景であっても、

その風景の魂のようなものを自ずと感得できるんだろうという気がします。

まして石平さんは日本人ですからね。

日本の風景に対面するときの感慨は確かだろうと思います。

そのような感性を獲得している石平さんは凄い人です。

 

「ふるさと」は誰においても、すべからく十字架だと、私は思っています。

私にとっても、私が生まれ育ったふるさとは、私の十字架です。

これを読んでくれているあなたにとっては、どうですか?

この意味が解らない人は幸せな(おめでたい)人です。

たとえ満ち足りた良い時代を過ごしたふるさとであるとしても、それはその人の十字架であることに

違いはありません。 

 

ところで、だいたい私は中国人が嫌いです。

朝鮮人はもっと嫌いです。

随分はっきり言いますね(笑)

しばしば見受けられる人間的特質として嫌いなんです。

この嫌悪感、日本人の殆どが共有しているんじゃないかな。

ただし、

日本人にもタチの悪いどうしようもないのが居ますからね。

又中国人、朝鮮人にも人間的に優れた人も居る。

優れた中国人、朝鮮人は何処へ消えたのか、

粛清されて、抑圧されて消えてしまったのか。

オカシイのばかりが生き残ってのさばっている。

 

もう 7、8 年前になりますが、

私はインドに一人旅をしていました。

日本食のレストランで、聡明な面持ちの寡黙なビジネスマンのおじさんと隣のテーブルになりました。

その風情から、私は当然日本人だと感じていたのですが、

その人は「コリアン」でした。

行きずりの刹那の一コマですが、印象に残っています。

また機会があれば、ブログの記事にしますね。

 

あと一つ、

石平さんのツィートをリンクしておきます。 

 

 

人は誰も、自分しかわからない孤独な内面を持っています。

自分の死際にはそれを聞きながら死んでいきたいと思う。